Artrip

大阪中之島美術館 開館準備ニュース

― 第4号 / 2019年10月 ―

2021年度に開館予定の、大阪中之島美術館。

「Artrip」は、美術館の開館準備について、現状の様々な情報をお届けするウェブマガジンです。

今号の特集は、「芸術と社会をつなぐ」仕事に長年携わる、雨森信氏へのインタビューです。

どうぞお楽しみください。(編集・発行 大阪中之島美術館準備室)

contents

《今号のコンテンツ》

特集 [インタビュー] 「まちの人々と芸術をつなぐ」 ― 雨森信氏 ―

雨森さんは、地域密着型アートプロジェクト「ブレーカープロジェクト(Breaker Project)」のディレクターとして日々活動されています。
2003年に大阪市の文化事業として始まったこのプロジェクトは、芸術と社会をつなぐことを目的としてきました。
継続的なプロジェクトの実践は、これまで現代美術と接点がなかった地域の人々の理解にもつながっています。

今回お話をお聞きしたkioku手芸館「たんす」(大阪市西成区)は、元タンス店を活用した「ブレーカープロジェクト」の創造活動拠点です。
この場所で、これまで雨森さんが携わったアーティストの創作活動と地域との関わりについてお話しいただきました。

―まずはブレーカープロジェクトについてお聞かせください。2003年にスタートし、15年以上の実績がありますが、最初からこのような長期的活動を意識されていましたか。

当初は、私自身もまちに出て行うプロジェクトの経験はほぼなかったですし、とにかく「芸術と社会をつなぐ」という目的でスタートしたもので、長期的な取り組みが必要という認識は持っていませんでした。始めて1年、2年と経ったときに、これは最低でも10年は続けないと、一過性のイベントで終わってしまうのではないかと感じるようになりました。そのうち10年があっという間に過ぎることになるんですが、さらに30年は続けなければ!と考えるようになり現在に至っています。

―現在は西成地域を拠点に活動を展開されています。活動当初には現代美術と地域が関わりあうことに難しさもあったのではないでしょうか。

元々は空き店舗が目立ってきていたフェスティバルゲートを有効に活用しようという大阪市の「アーツパーク事業」が2002年に始まり、その一環で2003年にスタートしたのがブレーカープロジェクトです。

始動してから2010年ごろまでは、新世界(浪速区)を中心に活動をしていましたが、かなり早い段階(2004年頃)には、西成区の方にも広がっていきました。フェスティバルゲートのある新世界は西成区と隣接していて地続きですし、アーティストとのリサーチや、きむらとしろうじんじんさんの「野点」を通して少しずつ関わりができていきましたので、自然な流れだったと思います。西成だからというよりも、そもそもまちに出ていくことは、そこで生活されている人、商売をされている人たちがいるわけですから、様々な摩擦があることは当然のことと受け止めていました。ただ、芸術やアートに対するストレートな疑問を投げかけられることは、美術館やギャラリーといった守られた空間ではあまり起こらないことですが、まっとうな意見だとも。時々凹むこともありましたけど、そのダイレクトなやりとりを楽しんでいたというか、居心地は悪くなかったですね。

写真:雨森信 氏

雨森信(あめのもり のぶ)氏

ブレーカープロジェクトディレクター

京都市立芸術大学美術学部卒業、設計事務所、ギャラリー勤務を経て、フリーランスのキュレーターとして活動。大阪市立大学都市研究プラザ特別研究員、甲南女子大学非常勤講師。2003年より、大阪を拠点とした地域密着型のアートプロジェクト「Breaker Project(ブレーカープロジェクト)」を企画、実施する。このほか「水都大阪2009」「BEPPU PROJECT2010」「札幌国際芸術祭2017」など、現代美術の様々な現場で活躍。来年開催の「さいたま国際芸術祭2020」のキュレーターも務める。

最初に行った藤浩志さんとのプロジェクト「超再生産工房Poly Prac.」では、フェスティバルゲートの1階の広い空き店舗に、藤さんが1999年ころからスタートした「Vinyl Plastics Connection」の全貌を紹介する展覧会と、来場者が会場にある素材を自由に使ってなにかつくることができる工房を併設した場をつくりました。ここでは、オープンの数ヶ月前からペットボトルの収集を始めて、地域へもそのチラシを配布して呼びかけたんですが、全く集まらなかったんです(笑)収集に協力してくれたのは、サポートスタッフ募集のチラシやインターネットを見た学生など若い人たちでした。今から考えるとあたりまえのことですけど、まだ関わりを持てていないのに、地域の協力が得られるわけがなかったんですよね。

一方、同時期に並行して進んでいた伊達伸明さんとのプロジェクトでは、フィールドワークという手法で、主に新世界のお店が多かったんですが、個々の建物にまつわるエピソードを聞き取る取材もスタートしていて。1軒ずつ、短くても1時間ほど話をお聞きするということを地道にやっていくことでつながりができていったんです。まずはいきなり訪ねて行って、事業の説明をして、多くの場合は理解してもらえないんですが(笑)、なんとかアポを取りつけて、改めてアーティストとインタビューに出向いていく。そんなことをやっていると、新世界で出歩くことも多くなって、まちの人と顔を合わせる機会も増えていくんですね。半年以上かけて約40軒の取材を行ったことで、結果として関係性ができていきました。リサーチをベースにしたプロジェクトはその後も行っていますが、地域に根ざしたアートプロジェクトを実施していくうえで重要な手法の一つとなっています。

(参考:大阪現代芸術祭プログラム Breaker Project2「ウクレレと歌留多で語る新世界」

―自ら地域に入っていくことで、プロジェクトへの理解が広がったのですね。

このウクレレのプロジェクトでは、新世界の喫茶店などを会場にして何度かトークイベントを開催し、地元の方にも登壇者として出演してもらったのですが、そのときに「伊達さんが何をやりたいのかがやっとわかったわ」とおっしゃる人もいました。約1年かけて報われた瞬間です(笑)

きむらとしろうじんじんさんと「野点」を実施した時には、伊達さんとのフィールドワークでできたネットワークをベースに、さらに新しいつながりが生まれていくことになります。興味をもってくれる人が徐々に増えてきたかなと実感するようになって、継続したらもっと面白い状況が生まれるんじゃないかと考えるようになりました。

地域に入っていく難しさはもちろんあったし、言葉を尽くしても伝わらないこともあったんですけど、継続していくことで、芽が出てくるんじゃないかなと思うようになって。続けたいなと思いました。

―それが今も続いている原動力ですか。

そうですね。アーティストが変わればやることも変わるので、新たな出会いや発見が必ずあって、関わりはどんどん広がっていきますし深まっていきます。私や事務局のメンバーはずっとこのエリアで仕事をしているわけですが、ルーティンにならずに継続できているのはそういう要素が多分にあると思います。

―地域の人々の変化というものもありますよね。

継続して4、5年ぐらい経ったとき、すごくやりやすくなったと感じる瞬間があったんですよ。理解してくれる人というか関わりのある人がどんどん増えてきて。新しいプランの説明に行った時も、「何か(面白いことを)やるんやな」という認識を持ってもらえるようになっていました。ずっと「よう分からん」と言いながら協力してくれていた方は、5年ほどたってヒアリングした時には、「分からんということが面白い、ということが最近分かってきた」とおっしゃってくださったこともあります。これは私にとっては大きな成果でした。

また、これも例の一つですが、梅田哲也さんとのプロジェクト(2011年〜2013年度にかけて実施)で、動物園前商店街に作品を展示させてもらったことがあって、それがあるお店のすぐ近くだったんですけど。店主が「もっと派手にとか、大きいものを!」とか色々言うんですよね(笑)

でも、最終的に行った「O才」の作品をみて、納得されたんです。美術のことがちょっとわかったとおっしゃって。派手に打ち上げ花火を上げて、大量の人を集めるイベントではなくて、それ以外の方法で何か地域に還元されることがあるのかな、ということを自ら悟って報告に来られたということもありました。

この「O才」というのは、ブレーカープロジェクトのなかでも、かなり分かりにくい作品になるだろうと思ってたんですが、蓋を開けてみると、近隣の方との面白い関わりが様々に生まれましたし、これまでも関わってくれた地域の方たちにも、絶賛されたりして。やはり作家が長期的にかつ丁寧に地域を観察して、プロジェクトを展開していったことが作品にも現れていたんだなと思います。

―地域の方から要望を含めいろいろな反応があると思いますが、どのように対応されるのですか。

ブレーカープロジェクトの創造活動は、商店街の賑わいを取り戻すとか、何か課題を解決するとか、いわゆるまちの活性化のためにやっているものではありません。ですので、地域のみなさんから要望を聞いてそれに答えるということはないですが、普段のやりとりのなかで、地域の方々のさまざまな声や想いは聞く機会も多いです。またリサーチとしても情報を収集するようにしていて、何かしらプロジェクトに作用することはもちろんあると思います。

アーティストがこのまちで発見したり出会うものの多くは、普段は見過ごされていたり、価値が無いとされていることやものであったりします。アーティストのようなよそ者が、そういったことに目を向けて、既存の価値をひっくり返すようなことしていく。要望されたことをやるわけではないので、その場所に住んでいる方たちにとっても、新たな発見につながったり、予期せぬ出会いを生み出したり。その積み重ねが一人ひとりの意識に作用していくのではないかと。それがまちにフィードバックされていくことが、未来のまちづくりにつながっていく。この仮説を立証するには30年やらないと!ということになるんです(笑)

まちは大きな資本が入ってくることによってガラっと変わってしまうこともありますが、本来はそこに住んでいる人たちによって半ば自然発生的につくられていく方が面白いまちになると思っていて。まちの人の意識が変わるとか、まちの見方が変わるとかが重要だと思っているので、そういう意味ではブレーカープロジェクトは、長期的にみればまちづくりの根幹に関わっていると考えています。

―地域で活動を展開しながら、定期的に美術館やアートセンターで展覧会もされています。この意図はどこにありますか。

心斎橋展示室(注:大阪市立近代美術館(仮称)心斎橋展示室・2012年閉室)ではじめて美術館という場所で展示をご一緒しました(「絶滅危惧風景」展、2011年)。美術館と連携することで、ポスターを作成したり、電車の車内吊りにポスターが展開されたりと、情報発信が格段に強化されて、これまでブレーカープロジェクトの現場に来ることはなかった層の方にも見ていただく機会になりました。その一方で、協力いただいている地域の方々が現代の美術を美術館ではじめて鑑賞するという機会にもなっていました。

美術館とアートプロジェクトの双方にとって、メリットがあったということですね。地域に根ざしたアートプロジェクトと美術館がいいかたちで連携できると、これまで美術館に足を運ばなかった人たちにとっても身近な存在になるのではないかと考えています。アートプロジェクトと美術館の役割は違っても、めざすところは大きく変わらないはずなので、これからも連携できると嬉しいですね。

―新しい美術館でも、地域で展開されるアートプロジェクトを紹介し広める役割が果たせたらと思っています。ところで、今、大阪の現代美術についてどのような印象をお持ちですか。

発表の機会や場所は少ないですし、行政の芸術文化に対する取り組みも京都や兵庫の方が熱心にされている印象がありますね。特に京都は美術系の学校が集中しているということもありますし、若い作家が活動できる環境も大阪に比べると整っていると思います。

とはいえ、大阪にも北加賀屋や此花のエリアに、空家などを活用したアトリエや活動の場、アーティストの集住があったりという動きもあるので、こういった各地域での活動をつなぐハブであったり、ギャラリーや美術館も含む大阪のアートマップであったり、海外や遠方から来られた方にもすぐ分かるような情報発信のしくみやアートの情報拠点があったら良いなと思いますね。

―最後に、雨森さんの今後の展望をお聞かせください。

ひとつは、ブレーカープロジェクトを30年続けていった先にある風景をみたいということがあります。

もうひとつは、現在取り組んでいるkioku手芸館「たんす」や作業場@旧今宮小学校のような創造活動拠点が、地域の集会所のように地域にあたりまえにある場所として地域に定着していくこと。さらに、こういった場が他の地域にも増殖していけるような仕掛けをつくって、広がっていけば良いなという希望もあります。また、それぞれの地域に根ざした取り組みなどが美術館と繋がっていれば、地域の人たちも美術館に行く機会が増えるのではないかと思います。

2019年8月19日、kioku手芸館「たんす」(大阪市西成区)にて

聞き手:高柳有紀子(大阪中之島美術館準備室主任学芸員)、北廣麻貴(大阪中之島美術館準備室学芸員)

コレクションからこの一点

モーリス・ルイス《オミクロン》 ―大型絵画が壁に掛かるまで

展覧会場で目にする絵画は、きちんと枠張りや額装がされているものですが、展示される前にはカンヴァス地一枚のままであったというケースが、実は少なくありません。大型の絵画などは、輸送のため、あるいは保管の際にかさばることから、作家の手もとでは木枠から外して重ねたり、筒状に丸めたりすることがあります。

モーリス・ルイスの絵画《オミクロン》もそのひとつで、1992年に大阪中之島美術館に収集された時には、木枠から外され、丸められた状態でした。収集後初めて一般公開されたのは、1996年に大阪・南港のATCミュージアムで開催された所蔵作品展です。約260×410センチ(画面サイズ)ときわめて大きく、丸められた状態でも大人の背丈をゆうに超えるこの作品が、展覧会開幕前の広々とした会場に広げられ、枠張り作業が行われました。下の写真は作業の一コマで、過去の枠張りの跡に沿って、新調した木枠が置かれています。

モーリス・ルイスは、アメリカ・ワシントンで活動した画家。1950年代から60年代初頭にかけて、カンヴァス地に塗料を「染み込ませる」技法によって独創的な抽象画を生み出しました。50歳で早世したルイスのアトリエには、生前に展示されることのなかった作品が、筒状に丸められたまま数多く遺されていたと言われています。

☆本ホームページの下記ページで《オミクロン》の作品解説をご覧になれます。
「コレクションギャラリー:モーリス・ルイス《オミクロン》 」

モーリス・ルイス 《オミクロン》 1960年

モーリス・ルイス 《オミクロン》 1960年

《オミクロン》 枠張り作業の様子

《オミクロン》 枠張り作業の様子

開館準備☆ワンショット

「安全第一!」

美術館の建設現場では日々たくさんの人々が働いており、現在、基礎工事が進められています。

現場は安全第一。

長袖上着とヘルメットの着用が必須です。

写真:美術館建設現場で作業を行う人々

イベント通信

グラフィックデザイン分野 インターン実習

毎年、大阪中之島美術館準備室では、外部研修生(インターン)の受け入れを実施しています。今年は、7月下旬から8月上旬にかけて、ポスターや広告、それらの原画といったグラフィックデザイン分野の実習が行われました。

今回、研修生としてやってきたのは、大阪、京都、そして遠くは岡山の大学に通う大学生・大学院生。専攻分野は芸術学や社会学と様々ですが、皆さん美術に興味を持っている学生さんです。

実習では、多彩なプログラムが組まれました。

ひとつは、作品の整理業務。この業務では作品情報の記録、撮影と、一通りの作業を行いました。

作品の梱包方法も体験をしていただきました。大切な作品を梱包するためには、美術品専門の資材を効果的に使う必要があります。学芸員のお手本を見た後はいざ本番!写真でご覧いただけるように、苦戦しながらも丁寧な手つきで取り組みました。

この他にも、作品の状態を確認する作業(コンディションチェック)や、美術品輸送専門業者による作品梱包から搬出までの作業の見学なども行いました。

短い実習期間でしたが、地道な作業が美術館を支えていることを、身をもって体験していただきました。

写真:実習の様子

実習の様子

  • インターン実習 実施期間: 2019年7月29日(月)~ 8月7日(水)
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